そういう遺構が西鉄筑紫駅の近くに存在することは知っていました。
いつかは探してみようと思っていたのですが、時の流れと共にどこかに忘れ去っていたようです。
仕事を早期退職してから暫く経つのですが、最近運動不足を痛感しているので朝の散歩を日課にしています。
自宅から出発し、西鉄筑紫駅方面に続く新しい道を通って、筑紫駅付近で折り返すと3.4km程という丁度良い距離なので、ほぼこの経路を歩く事を日課にしていますが、時には距離を少し伸ばすために少し脇道に入って遠回りをしています。
その日も遠回りをしていると、筑紫駅前のファミマの横に公園がありました。「筑紫ふれあい公園」です。
その公園の端っこにちょっと不自然な建物を発見。別に放っておいて先を急いでも良かったのですが、何故かその建物が気になったので公園の中に入って近づいてみました。
建物の前に立つと、忘れ去っていた記憶が蘇ってきました
西鉄筑紫駅列車銃撃事件とは?
あまり知られていないかも知れませんが、その事件は第二次世界大戦中の1945年8月8日に起きました。当時の福岡県筑紫郡筑紫村(現:筑紫野市)内の西日本鉄道(西鉄)大牟田線筑紫駅付近で発生した空襲事件です。
非武装の列車数本に対してアメリカ軍の戦闘機複数が機銃掃射を加え、多数の死傷者が発生した悲惨な事件なのです。
事件の概略
それは終戦のわずか1週間前の事件です。諸説ありますが、西鉄の資料によると、1945年8月8日、当時の西鉄福岡駅を午前9時52分(9時40分説もあるようです。)に出発した大牟田行き下り普通列車には200人近い客が乗っており、ほぼ満員状態での運行でした。
途中井尻駅で空襲警報発令のために1時間程停車してからの再出発。しかしその後も停車と非難を繰り返しながら運行し、昼頃(11時説もあるようです。)に筑紫駅を目前にしたところで、戦闘機の機銃掃射を受けましたが、何とか筑紫駅のホームに滑り込みました。僅か5~6分の出来事でしたが「車内は遺体が重なり、血の海となる修羅場と化した」とあるようです。車体側面だけで100発余の弾痕が数えられ。この銃撃で56人が即死、負傷者は100人以上と言われています。
一方、上り電車は午前9時頃に西鉄久留米駅を出発。乗客は20人程度でしたが、筑紫駅の一つ手前の津古駅を出発して間もなく機銃掃射を受けて8人が即死、数人が負傷したと言われています。
また、この日は西鉄宮の陣駅付近でも列車が機銃掃射を受け、数名が負傷しているそうです。
更に同日に国鉄荒木駅付近でも駅舎および停車中の車両に対して機銃掃射を受けていたそうです。
事件の背景
当時の日本陸軍は本土決戦に備え、第16方面軍司令部を福岡市から筑紫野市の山中に掘った地下壕に移転するなど情勢は緊迫していた時期でした。
一方、米軍は九州上陸作戦を前に都市攻撃を強化していた時期で6日の広島への原爆投下と9日の長崎での原爆投下という大事件の間に起きた惨劇です。
事件の僅か7日後に終戦となることなど、日米両軍共に知る由もなかったのです。
筑紫野市教育委員会の再調査
何故かこの銃撃事件の公式の調査記録は無かったそうです。
遺体収容に当たった当時の地元消防団長の記録は火事で焼失。筑紫村役場も昭和28年の水害で書類が水没してしまいました。西鉄も筑紫野市教育委員会の問い合わせに「犠牲者名簿は所在不明」と回答したそうです。このため市教育委員会は、事件を風化させないため再調査を実施し、11人の犠牲者名を特定。64人の証言記録を集め、平成30年に「西鉄筑紫駅列車銃撃事件の記録」としてまとめました。
調査結果
それまでの定説と市教委の事件の再調査記録が大きく異なるのは、当時の西鉄の資料では上下2本の列車で合わせて64人とされる犠牲者数です。
事件直後に駆け付けた運転士の同僚は「犠牲者は上り列車7~8人。下り列車は収容先で62まで数えた」そうですが、「実際は100人ぐらい死んでいるでしょう」と続けたそうです。
また、上り列車の乗客が「約20人」というのも「間違い」という証言が多いそうです。ある乗客は「座れる席は一つもないほどの満員だった。2両で120人から130人はいた」と証言しているそうです。
また、機銃掃射は「アメリカ人操縦士の顔が見える」ほどの低空飛行で、繰り返し行われており「車内が満員で死者が8人だけというのはありえない」と話したそうです。
市教委の聞き取り調査に全体の死者数が「150人以上」との証言もあったそうです。
また、被害者の収容先は近くの精米所や、神社、学校、西鉄二日市電車区などバラバラだったようで。更に被害者の3分の1を占めた軍人は、別途引き取られたという見方もあるようで、記録をまとめた市教委の方は「64人は即死者の数の可能性もある。死者は少なくとも100人以上はいたという点で目撃者の証言は一致している」と語ったそうです。
襲撃した戦闘機の記録
目撃者の多くは、襲撃機について「グラマン4~7機」と証言したそうですが。2013年大分県宇佐市の市民団体が米国国立公文書館で、機体に搭載した「ガンカメラ」の映像を見つけました。
このガンカメラの映像には福岡県久留米市の旧国鉄荒木駅機銃掃射などの映像とともに、筑紫駅での列車銃撃が動画で残されていました。これにより襲撃した戦闘機は「P-51ムスタング」と判明。
筑紫野市教委も米国国立公文書館から戦闘機の行動を記録した「戦闘詳報」を入手し、分析したところ、襲撃機は陸軍第340戦闘機中隊の「P-51」12機ということを突き止めました。
戦闘詳報によると、同中隊は沖縄の伊江島を出発。大分上空でB29爆撃機と合流する予定でしたが、失敗して「臨機目標」に変更。旧国鉄荒木駅、西鉄筑紫駅周辺の列車を襲撃し、大刀洗飛行場上空を経て帰還したということです。事件後に一部にあった八幡空襲(北九州市)の帰路説は否定されました。
当時のままの遺構
空襲時に西鉄筑紫駅のプラットホーム上にあった待合室が「平和のシンボル」として1981年に筑紫野市役所筑紫出張所敷地内に移築され保存されました。
当初は屋外に展示されていましたが、2015年に筑紫コミュニティセンター横の「筑紫ふれあい公園」内に建てられた保存施設内に移設されて現在の屋内保存となりました。
そのため、通常はガラス越しでの見学となるりますが、申し込めば中を見学できるようです。
私は見ていませんが、待合室の天井には機銃掃射によってできた銃弾の跡の穴が複数残っていて、今でも悲惨な出来事の一端を伝えているそうです。
まとめ
今回は、散歩中に「筑紫平和記念館」を偶然見つけた事により、西鉄筑紫駅列車銃撃事件について考えてみました。
実は私の祖父も終戦当時は満州の騎兵部隊に所属。空襲してきたロシア軍戦闘機の機銃掃射によって太ももに大怪我をしたそうです。何度かその太ももの大怪我の跡を見せてくれた記憶があり、更にその後はロシア軍の捕虜となりシベリアで抑留生活を強いられたという戦争の悲惨さを語っていました。因みに祖父は戦争で戦死したもの思われていたのですが、数年間の悲惨なシベリア抑留生活を終えて帰り、みんなを驚かせたそうです。
いくら時代が変わっても、便利になっても、平和になったとしても、その便利で平和な時代を作り上げるまでにはこのような悲惨な事件もあり、その先人達の犠牲と類い稀な努力によって成り立っている事を忘れてはいけませんよね。
今でも8月8日には地元の筑紫自治会が平和記念式典を行って犠牲者を追悼しているそうです。
コメント